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隣花苑
- 取材日:2004年6月25日 -

三渓翁 こぼれ話 page1ページ2ページ3ページ
料理を楽しんだ後も、花と緑に彩られた庭から吹いてくるそよ風が心地よく、私たちはついおしゃべりに花を咲かせてしまいました。話題になるのは、やはり原三渓翁のこと。隣花苑は、三渓翁を除いては語れません。
実は、歴史の先生であった三渓
原三渓(本名・富太郎)といえば、生糸貿易で財をなした実業家として有名ですが、そもそもは跡見女学校(現在の跡見学園)で漢学と歴史を教える教師でした。そのとき、女学生として彼の指導を受けていたのが、生糸商として横浜で成功し、横浜商工会議所の初代会頭でもある原善三郎の孫娘・屋寿。やがて二人は相思相愛の仲になります。
かくて三渓は原家の婿養子となり、善三郎が築き上げた事業を受け継ぐことになりました。


歴史観の中核で燃えていた
三渓園photo 三渓の名声を高めているのは、実業家としての成功だけでは決してありません。彼は日本の文化美に対する確固とした歴史観をもち、その素晴らしい世界を広く人びとに知らしめた、類まれな文化人でもありました。また、次の時代を担う若い芸術家たちの育成にも力を注いでいます。
三渓は優れた美術品や骨董品のコレクションに精を出すとともに、京都や鎌倉などの歴史的に価値のある建造物を自分の邸宅に移築しました。しかし、それらを一人占めにしようとしたのではなく、一般の人びとや若い芸術家に公開し、日本の文化水準を向上させようとしたのです。
明治39年、彼は数々の価値ある建造物を移築した自分の邸宅を横浜市民に無料で開放します。それこそが現在の三渓園です。


共同生活の恩に万一を報ぜんと決せり
三渓園photo三渓の最大の功績は、関東大震災で廃墟となった横浜の復興に自らの富力と身命をなげうって貢献したことでしょう。彼は震災後、横浜市復興会の会長となり、都市・横浜の復興に全力を傾注します。そして、復興に専念するために美術品のコレクションを中止したばかりでなく、精魂込めた自分のコレクションで日本銀行との間に抵当権を設定し、手に入れた資金で多くの人びとを助けたということです。
「すべての富も文化遺産も社会のもの」という強い信念をもち、実際に自分の富を社会に還元した三渓。そんな彼がいたからこそ今の横浜の発展があるといっても、決して大袈裟ではないかもしれません。



参考文献:竹田道太郎著『近代日本画を育てた豪商 原三渓』有隣新書(昭和52年)

かくして、三渓翁に思いを馳せ、彼の偉大な功績にあらためて感謝しつつ、今回の宴はお開きとなりました。
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