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第5回
馬車道と事始め

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ハマツウ養成講座第5回ではアート宝飾の六川さんにお話をしていただきました。場所は馬車道の富士銀行で当日は雨に降られましたが、70名を越える方にご参加いただいきました。当日は高梨乳業でつくっている馬車道アイスも参加者に振舞われ、参加者も、おいしくいただきました。六川さんの話も大変面白く、充実した講座であったと思います。

□ 馬車道の歴史

PHTO馬車道は慶応2年、1866年2月26日に末広町、現在の横浜公園の辺りですけれども、そこで大火が発生いたしまして、日本人街の大部分と居留地の一部を焼失いたしました。この大火の後、こういう形にならないように、外国人居留区と日本人の街をある意味では分断するような形で、慶応2年の12月29日に「横浜居留地改造及び競馬場墓地等約書」そういう約書が外国との間に締結されました。この約書は日本の近代都市経営の始まりとも言うべき性格をもっておりまして、この約書によりまして、現在の関内地区の原型が造られました。

この約書によりまして、海岸通から吉田町まで幅員60フィートに拡張されました道路を計画し、慶応3年3月に馬車道は完成いたしました。60フィートというと18メーターなんですが、何で60フィートかな、というのはお分かりですか。実はこの約書にも書かれているんですが、現在の日本大通り、これが実は120フィート、36メーターで計画されたんですね。先ほど申しあげましたように、外国人居留区と日本人街、例えば日本人街に火が出ても、外国人居留地に行かないように、そういう形で防火帯の意味も含めて、日本大通りは計画されました。それが120フィートです。そのちょうど半分が60フィート。これが当時のヨーロッパの街並みの道路の幅員とけっこう似ている、近い幅だということも言われております。

慶応3年3月にこの幅員60フィートの道が整備されますと、この道路を外国人たちの珍しい馬車が行き交い、明治2年5月には吉田橋わき、現在の真砂町4丁目に、成駒屋(なりこまや)と称して、乗り合い馬車の発着所が開業いたしました。横浜、東京、日本橋間を4時間で走ったそうです。最盛期には御者が25人、馬が60頭で営業いたしまして、明治5年の鉄道開通まで営業していたそうです。これはわが国の乗り合い馬車の始めという形になります。

そういう経過の中で、馬車道という名称が出来上がってまいりました。明治3年11月には人力車も横浜に登場しております。吉田橋と大江橋には人力車のたまり場が設けられまして、市内で営業しておりました。これも当時、大変流行いたしまして、横浜の町はひずめとどろく馬車の音と人力車の行き交いで、非常に活気にあふれる町になっていったわけです。この人力車も馬車も、当時では大切な交通機関、交通手段の一つだったとも言えると思います。

明治元年から2年にかけまして、こうした町の賑わいの中に、民間の人々によって文明の新知識を基にした店が増加してまいりました。明治元年、下岡蓮杖が太田町に写真館を開きました。これは馬車道にその下岡蓮杖の写真館の記念碑が本通りにございます。また明治2年には吉田橋に鉄橋がかかった。かねの橋ですね。

それから町田房造が5丁目に氷水店を開業いたしました。これが「アイスクリン」と言われたものです。

こういう形で新しい文明開化に基づいたいろんなお店が出来上がってくるわけですけれども。店の前には街路樹を植えて、街並みを整えて、わが国初のかねの橋もかかって、見物のお客様がだいぶ多く賑わいを呈した、ということも記録に残っております。

そして明治5年、ここにも書いておりますけれども、ガス灯がともるようになりました。それで明治6〜7年ごろから非常に露店が、このガス灯の開架とともに並び出しまして、この青い光に街路樹の緑が相まって、非常にムードが良かったようです。馬車道に平安堂さんという薬局がありますが、そこの現在の社長のおじいさま、清水藤太郎(とうたろう)さんとおっしゃいますけれども、『横浜今昔』の中でかように書いてございます。

「馬車道通りは両側に70軒の商店が並んでいました。外人客が波止場、センターピアーから萬国橋を通ってまっすぐに来られるので、当時は横浜一の高級商店街となり、ちなみに鬼瓦を葺いた2階建て黒塗りの土蔵造りが見事に家並みをそろえて、街並みの中央を貫く砂利道の馬車道の両側には柳の木が植えられ、夜ともなるとガス灯に明かりがつき、また馬車の鉄の車輪からも火花が出て、夕闇迫るころはなかなか風流なものでした。夕方の物売りの声が聞こえたころ、ガス局のおじさんが竿を2本をかついで通り、1本はかぎつき、1本は火種でした。ほの青いガス灯が点くと夜のとばりが降り始めるのです。」

このような馬車道の繁栄は明治から大正とかけて続いていくわけですけれども、大正11年、関東大震災、あるいは第二次世界大戦によってその旧態を失うことになってしまいます。しかしそういう中で戦後、馬車道では昭和29年の12月23日に馬車道商店街協同組合、現在の組織の母体になったものですけれども、が60店舗で組織されました。当時、馬車道だけが戦後の関内において商店街らしい商店街として発祥していったわけです。

□ 馬車道の再生とまちづくり

昭和30年代初期の馬車道商店街、覚えておられる方もたくさんいらっしゃると思います。僕も子どものころの記憶をたどるとそういう記憶があるんですが、トーテムポールがあったの、ご存じですよね。トーテムポールがちょうど、馬車道広場、今高いマンションになりましたけれど、あの辺りにありまして、石灯籠も確かあったと思います。当時の商店街というのはアーケードがかかっておりましたがなかなか活気を取り戻すのは難しかったわけです。

そういう中で1970年代にはいると、再開発の気運が高まってまいりました。初期の開発についての話をこれからさせていただきますけれども、馬車道は昭和48年7月に、横浜の商店街街づくり都市型モデル商店街の第1号という認定を受けまして、昭和49年12月に横浜市の指導のもとに、街づくりの実施基本計画を策定いたしました。

策定をいたしまして、50年4月には横浜市と馬車道商店街街づくり協定書を締結して、明治文明開化の街、馬車道を現代に蘇生させるべき再開発がスタートいたしました。

この「街づくり協定書」は、横浜の他の地域の先駆けになったものでして、元町・伊勢佐木の後の再開発がこの協定書を一つのモデルとして、それぞれの街の街づくり協定書を策定いたしております。

昭和51年1月に赤れんがモールというのを着手いたしまして、舗道の拡幅、舗道の赤れんが化、街路樹の増植、街路樹の植え替えですね、それからストリートファニチャーの設置等いたしたわけですけれども。その時の一つの目玉の一つに、彫刻の設置というのがあります。彫刻については、日刊新聞発祥の記念碑から始まって、馬車道のものの始めとリンクさせたものです。例えば馬車道に係わるもののはじめとして、慶応3年の近代街路樹の記念碑というのがちょうど旧丸井の前に設置されております。それから下岡蓮杖、先ほどちょっとお話しましたけれども、この写真館もここで発祥いたしております。これもちょうど、日本火災の前のところに記念碑がございます。それから先ほど言いました乗り合い馬車、それから町田房造さんの氷水店、アイスクリン、それからかねの橋。それから日刊新聞、それからガス灯ですね。

こういった関係のものがこの馬車道の地区で発祥いたしておりますけれども、横浜から始まったものは実にたくさんあるんですね。皆さんご存じだと思うんですが。例えば洋風建築。これは横浜の神奈川運上所の跡、慶応3年、それから電信、外国郵便、電話、野球、ホテル、それから理容、頭ですね、それからクリーニング、それから西洋歯科医、キリスト教会、和英の辞典、近代病院、近代水道、オルガンの製造、レストラン、西洋野菜、マッチ、石けん、貸し自転車、外国人劇場、洋風瓦、ビール、テニス、軍楽隊、近代競馬場等々ほんとに多様です。

それでちょっと話また戻しますが、昭和48年に横浜市の指定を受けて、第1回目の再開発に着手することになったわけですけれども、その中で今言ったような部分、それから大きくは当時としては非常に珍しかったと思いますけれども、壁面後退というのをやったんですね。これは民地、民間の土?地を少しセットバックをして、1階2階の空間を少し広げてあげるんですね。そういうことをやりました。馬車道のメインの通りについては2.5メーターのセットバックをしましょう、ということで取り決めをしたわけです。民地を提供するんですから、それは大変なことなんですけれども、たまたま私の先代が当時の理事長をやっておりまして、旗を振っていた一人なんですけれども、きょう有隣堂の篠崎さんもいらっしゃいますけれども、馬車道のアートビル、私どもの本社ビルを造ったんですが、有隣堂さんにも当初いろいろ、当然お世話になっていただいたんですけれども、そこもセットバックを約3メーター半ぐらいいたしまして、それは開発の前にできあがったビルなんですね。そういう形で一つの例を示しました。そういう形でみんながその例にのっとってやっていこう、という形でセットバックをいたしまして、それが一つの大きな特徴であります。

こういうふうにセットバックすることによって、街のそこそこにちょっとしたポケットパーク的な要素というのが生まれまして、今はそういうポケットパーク的な要素を活用して、例えば音楽をやったり、絵を並べてみたり、そういうことをやっておりまして。当時のイメージとしては、パリのモンマルトルの辺りに行きますと、あそこは丘ですけれども、その下、下りますと、イーゼルがセーヌ川の横に並んでいたり、上がっていく道に並んでいたり、いろいろ絵画が飾ってありますね、そういうようなイメージが一つあったのと。それから海外のいろいろな街を一つのモデルにしてまして、もう一つはスイスのチューリッヒにあるバンノフストラッセという道があるんですが、ちょうどチューリッヒの駅からダラダラと湖に向かって動いていく、そういう道なんですけれども、現在もそこの道は中心に路面電車が走っておりまして、靴のバリーの本店なんかがある街ですけれども、そういったイメージを描いてみたり。いろいろ海外の例も入れながら、当時の街づくりをしていたようです。
 それで、この工事につきましては、最終的には昭和51年11月にこの工事が終了いたしております。それでこれから10年たった昭和61年5月に街づくり協定書の一部改定をいたしました。
この協定書の主な点を申し上げると、馬車道のメインの線、通りから少し面の広がりを考えまして、馬車道エリアを少し広げました。関内大通りがここに1本道があるんですが、大きな通りが、そこから馬車道を挟んで六道の辻まで、という形で少し馬車道のエリアというのを拡張いたしました。そしてメインの方々は当然2.5メーターのセットバックをするんですが、少し広がったサイドの皆さんについても、できれば1.5メーターのセットバックをしてください。そういう形で地域に少し、土地を提供していただいて、少ないながらも少しずつ広がりをもっていきたい。もちろん、100坪ある人と30坪ある人とは違いますから、この辺の協定についての話もいたしますけれども、あくまでも紳士協定なのでお願い事項になります。お願いをして聞いていただいた場合にはそういう、少しゆとりの空間も生まれるということです。

この街づくり協定書ですけれども、これは先ほど言いましたようにあくまでも紳士協定書です。いくら街がお願いしても先方に賛同いただけない場合は協定は成立しません。またこの協定書には別に訴求する力もございません。ただこの協定書の運用につきましては市の都市計画局、あるいはデザイン室、経済局等とも非常にいい連携プレーをしてまして、街の承認の判子がなければ、新築の場合は建築確認が下りない。あるいは改築の場合も、あるいは看板を付け替える場合も、街の承認がなければ市の方の許可が下りない。そういうようなシステムをつくってったんですね。ですから訴求力はないんだけれども、実は訴求力はあるんです。その辺はちょっと悩ましいところなんですが、横浜市、特に都市デザイン室とはすばらしいパートナーシップがあったと思います。
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